初期作
そのまま、だいたいほぼ。多少手直し。恥かしいのも歴史の層かなぁと思いまして。
[[10回目より、たった一言の魔法。]]
「宍戸さんっ
宍戸さんっ
宍戸さぁーん!」
校舎を駆けて渡り廊下を抜けて、僕は行く。
部室のドアを開けながら大声で叫んだ。
タイミングから考えてたぶん3回目は聞こえていたと思うから、
「宍戸さん!」
4回目を言って僕は中へと飛び込んだ。
室内には適度な距離を空けて、まばらに置かれた何脚かのパイプイス。
列の一番端っこにある青い背もたれのそれが目の端で動く。
彼は白いTシャツに黒のハーフパンツをはいていた。
最近はトレードマークになってきたキャップは脱いで傍らの机の上に置いてある。
ゆるく脚をあぐらに組み、宍戸さんは少し丸めた背中をこちらに向けて座っていた。
珍しい。
彼の背中が猫のようになるなんてあまり見たことがない姿だ。
「宍戸さん?」
意図せず尋ねる声が振るえてしまった。
耳に届いた時ではすでに遅いはずだ。
なんとなく構えた僕だった、けれどこの距離で聞こえてないはずなんてないのに宍戸さんは、
あれ?
熱心に手元を見つめて意識すらこちらに払わない。
意を決し近づいて、
「………」
その顔を覗き込んでばかみたいだけど胸がときめいた。
何と向かいあっているのかは知れないけど真剣な目でうつむいた横顔は、
「…あーっ」
カッコよかった。
これが自分のものかと思うとにんまり、いい気分だと思う。
にまにまと頬をゆるめながら僕は着痩せして見えるその肩をめざして飛びついて、
「宍戸さんっ」
6回目。
大好きな人の名を呼びました。
えいや、とその首に抱きついて、
「宍戸さぁーん」
ぎゅっと抱きしめて愛しの彼の名を呼びました。
けれど。
願って思っている時ほど決まらない。物事は思い通りにならないものです。
そうやって呼んだ僕に宍戸さんは一言、
「うぜー」
で終わりです。
まるで自分には関係ないとばかりに、跡部さんのように言うとそれまでも読んでいたらしい
シューズの写真が並ぶ雑誌に目を落としてしまいました。
ちょっと…、
「…ひどいっす…」
…宍戸さん。
8回目は声にならず心の中でこぼれました。
思わずつぶやいたら全然関係ないのに、僕は変なことを思い出してしまいました。
たとえばそれは寝過ごした朝に見上げる校舎やこっそりと入る教室のように、いつも通りなのに、
べつにどこも違わなくないのに自分だけがどこか取り残されたような形のない、
寂しさのようなものが胸に過ぎったんです。
今日の朝もです。
カーテン越しのこぼれ陽で飛び起きたら居るはずの母と父の姿はなく、姉もおらず、
居間のテーブルにぽつんと置かれた書置きに僕は時間を忘れてぼんやりしてしまいました。
親戚に不幸があったから、と行ってくるとだけの一筆を残されて、
べつにこの歳でそれが嫌とかなんて思わないけどおかげで朝ご飯の用意はないし、
じゃあと入ったコンビニでレジは壊れて待たされるし、
朝練に間に合わないし、どころか始業時間ぎりぎりに校門を駆け抜けるはめになるし。
思い出すときりがありません。
さんざんな朝でした。
でもそのどれもが誰が悪いわけでもなく、
しいて言うなら目覚ましを両親に頼んですませていた自分がなさけないばかり。
思い出したくもないことまで思い出してしまいもう、
「ぁは…はっ……」
笑うしかない。
僕はわずかですが、考え込んでしまってました。
それに気付き、間をごまかすように笑ったけれど力ない蛙みたいな、
ひしゃげた声と顔になってしまった気がして僕を更に滅入らせます。
ああなんかばか、みたい。
抱きしめる宍戸さんの肩は暖かい。
彼はこちらを見ないけど一人でぐるぐる空回っている僕をそれ以上邪険にしない、急かさない。
心地よさに僕は耳をすます。
「みたいじゃないか…」
代わりにかまいもしないけど、そういう彼を僕は嫌いじゃない。
「…ごめんなさい」
素直に言葉が出てきた。
確かに朝、練習前に眠いから嫌だとしぶる宍戸さんにどうしてもと無理を押して会う約束を昨日、
お願いしたのは僕だ。
9回目は、戒めを込めて。
「宍戸さん」
言い訳にならないように、自分に戒めるように、僕は首筋に顔をうずめて口にしました。
こちらを向く様子のない宍戸さんの背中に小さく細く、ため息をもらし、
「うわっっ」
目を閉じた僕の頭を大きな手のひらが襲ってきます。
顔を上げると彼の右手は頁をくっています。雑誌を眺めるままの彼の左腕だけがのびてきて、
振り向きもせずにボクの頭をがしりとつかんできました。
「あー」
すごく面倒そうに声を出します。
「はらへったなー」
ひとりごとのように、
「えっ…」
少しだけ、言い聞かせるように。
ぶっつりとつぶやいて宍戸さんはがしがしと髪をかきまぜなでました。
「なぁ」
同意を得るように、尋ねるように彼は今日はじめて、柔らかく目を細めて僕の顔を見ました。
たったそれだけです。
なのにどうして、
「おい?」
僕は言葉が出ないんでしょうか。
何も言えない僕を大丈夫かとあきれた顔をして彼は優しく、甘く笑いました。
僕は何度目だろう。また繰り返し、思いました。
ばかで、いいや。
「ばかだなー」
だって僕は、たったこれだけのことで今日一日の不運も不機嫌も、朝の失敗も、
なにもかもがどうでもよくなってしまうんです。
「宍戸さんっ」
10回、目。
そして僕は今日、彼がはじめて呼ぶ僕の名前を聞きます。
「長太郎」
ただそれだけで僕を幸せにする宍戸さんの声が、ゆっくりと僕の耳に染み入ります。
[[坂をのぼったら]]
「ジャンケンしましょう!」
部活後の帰り道、坂道で、最初に言い出したのは俺じゃない。
「長太郎っ」
もちろんこいつだ。
俺は自分で言い出しておきながら遅れてくる長太郎を肩越しに振り返り、
「さっさとしろ」
しかたなく少しだけ待ってやることにして路の脇にあるブロック塀にもたれた。
長い坂の、途中だった。
練習帰りに楽な路でないのは確かだったが、さほど辛いわけでもない。
体中に広がる軽い疲労感は逆に何か安心できるものがある。
頭でも気でもなく、体の使われた重み。
ここのところ、少し、遠くなっていたものは離れてみていかに自分にとって大事なものだったのか、
思い知らされた一日だった。
季節は秋、からさえもすでに遠ざかろうとしている。
冬へと向かう乾冷えた風が頬をかすめていった。
見上げる塀の上からたれて出る、枝の先にもふくよかな葉などとうにそげ落ち、
なさけないほねばった細さが突き出ているばかり。
「ちょーたろーっ」
大声を出してみる。
これぐらでねをあげるヤツはうちのレギュラーにはいないし、いらない。
「待ってくださぁ〜いぃ〜」
遠くから、しかし思っていたよりは距離のない所から声が上がり無意識にほっとしている、
自分に気がついて俺は自分を笑った。
長太郎のなさけない声が、懇願がひょろひょろと流れてくる。
待ってるだろーがっ。
よっぽど先にいってやろうかとも思ったがここで、目をつむり日当ぼこしてるのも、まあ、
「悪くないか」
気持ちは上々で。
待ってやるかと思いなおしてズボンのポケットに手を入れ、
ごつごつしたコンクリート塀に頭をあずけた。
「宍戸さぁ〜ん」
あいかわらずとろとろした声だ。
俺よりでかい体に似合わず、しかし性格と顔には合わなくもないが、甘ったれた声がのびる。
近づいてくる、響き。
ジャリリジャリリと、じゃりとスナの浮く古いアスファルトの坂路を上ってくる足音がする。
「ジャンケンで、負けた方が勝った方の荷物も持って帰りましょう!」
自分から、言い出したのにあいつはいつも俺のカバンを持っている気がする。
俺はあいつのカバンを数えるほどしか持ったことがないことを思い出すとなんだか妙だ。
俺はラクだから、いいっちゃーいいんだがそろそろやめましょう、の一言でも、
「出てよさそうなのにな」
長太郎の口からは一向に出るようすがない。
むしろ何が嬉しいのか、あれだけ持たされているにもかかわらず楽しげな時すらある。
わかんねぇ。
その表情を見るのは俺もどうも、嫌いじゃないらしいから困るのだ。
時々イライラはする、がな。
「いたっ」
今日も楽しそうに俺の名を呼ぶ。
ひょろひょろとした長身の、上半身が見える位置まで長太郎はやってきていた。
もたれていた塀から背を離し、
「おせーぞ」
言って俺は追いついたやつが持つ自分のカバンを奪った。
「宍戸さん?!」
慌てた長太郎がそのカバンになぜか未練のある目をして、
「まだ交替のところまでだいぶありますよ?」
と言うのに、
「いんだよ」
俺の腕を掴んできた長太郎の手を俺は避けた。
「宍戸さん」
それを追って、掴まれた腕をやんわりふりはらって俺は歩きだした。
「宍戸さんっ」
待ってくださいと長太郎は自分が持つからと譲らず、
「いんだよ」
けれど俺はそれを一蹴した。
「持ちますって」
「だから、いいっていってるだろがっ」
もめる時は毎度このパターンなのに長太郎の態度があんまり学習されないので、
俺は足をはやめ、振り切るように坂をのぼったけれど、
「宍戸さんっ」
またしても、
「宍戸さーん」
またしてもで。
置き去りにされた犬のように俺を呼ぶ声が、余韻が、耳に入り奥の方まで波状に入り込んでくる。
俺は止めた足で、つま先を何度か打ち苛立ちの波を消そうとしたけれどうまく、
「くそっ」
いかず。
ださい、ゲキださいと思ってみても今どきはやらねーぞと思っても、
思うことがすでに末期の症状なんだろう。
「長太郎」
うだうだごねる、やつのいる所まで戻ると、
「でも…」
まだ開くその口を、俺はネクタイを引っ張り首をめしとり、
「!!」
がつりと塞いでやる。驚いた、長太郎の目が丸くなるのが、ゆっくりとスローに変わっていくのがたまらなく、
してやったりと思えて気分がよかった。
唇を離すと、
「っ……」
口のきけない様子で顔を真っ赤に染めて、
それでも何かを言おうとしているのが笑ってしまうほどおかしくて、
「長太郎」
その膝が笑っているのもおかしくて。
「くっ」
楽しいかも。
「おらこい」
とりあえずの成功を腹に収めて俺は自分のと、先ほどの奇襲で地面に落ちた長太郎のと二つを拾い、
カバンをまとめて片手でしょいながら顎をしゃくった。
「さあ」
次の交替場所になる、
「いくぜ?」
××町×丁目××××番地は、目指す場所は、
「長太郎」
坂をのぼりきった頂点にある電信柱まではあと少しだ。
[[犬の日(シッポとミミ改題)]]
「しっしっどっさぁ〜〜ん!」
バタンと部室のドアはその日、静けさを破って開いた。
満面の笑顔をして、長太郎はまるで犬のように飛び込んできた。
息を切らしいつものように、
「宍戸さぁん」
決まりごとのように俺の名を呼んで長太郎は騒々しく開けたドアをびたんと、
騒々しく閉める。
「長太郎ぉッ」
もっと丁寧に閉めろって言ってるだろがッ。
俺は跡部の、心底、嫌みな無表情を思いだして声にだした。
「っえ?」
何のことか分かってない間抜けづらをさらし、面を食らった長太郎はかたまっている。
いつも言ってるだろがと捨ておいて俺は今、開けようとしていた昼飯の続きにかかった。
入口が見えやすいように斜めていたイスの向きを机の方に、
向きを直し弁当箱を包んでいたバンダナを丸めて机の、その辺にほうった。
チラリと肩ごしに見ると長太郎は馬鹿正直に、懸命に考えているようだった。
「あっッ!」
…思いついたか。
「宍戸さん!」
おう。
さすがにかわいそうになって思い返事してやる。
「もう弁当あけちゃってるんですかぁー?!」
違うだろ…。
「あけてねぇっ」
振り向いて言ってやった。
以前か。同じように待ち合わせて飯を食う約束をさせられ、
だがなかなかやってこない長太郎に腹時計の時間を合わせてられず、
待たず、さっさと食い終ってしまい居たら顔を見せるやすごい剣幕で突然泣き出され、
えんえん、説教のような泣き言を聞くはめになった。
返すだけでイラつく思い出だ。
以来、本当に飯を食う時間がなくなる時までは待ってやるようにしている。
「え、じゃあ」
なんでですか、と長太郎はじっと俺の背中を見てきやがった。
俺は無視を決めて箸箱を掴む。開けて、
中に入っているものが自分のものではなく父のものであるのを見て眉をひそめた。
後ろでうなだれるような気配があり、無言のまま視線が注がれる間があり、
「あっあの…」
息を飲む瞬間、
「…なんでもありません」
何にも乗せられない言葉が発せられる。
もっとなんかあるだろうと思うがそのまま俺は弁当の蓋を開けた。
悲壮なツラをしてもあの丸めても小さくならない背ではなさけないばかりで、
かわいくもなんでもないんだろうなと思うと、鬱陶しい。
しかしそれがそれほど嫌でもないのが逆に俺には嫌、だったりする。
だから続行をきめこんで箸を掴むが食べはじめる気になれずこっそり、横目で後ろを振り返ってみる。
伸び悩む俺からしたら羨ましいほどでかい、ナリをしてるくせにうなだれると何故か、
子犬、のように見えるのは何故、なんだろうか。
くそっ。
「いつまでそんなとこに立ってるつもりだ?」
大型の、
「え?」
子犬がびくびくとこちらをうかがう。
「時間がなくなるだろ」
「あっあの?」
きょとん、と目をみはる。
「食えっ」
俺は持っていた箸箱をばしん、と机に打ちつけ置く。
「さっさと食わねーと、俺は先に!帰るからなっ」
右手に持っていた両箸の先でビシッと言い指して俺は弁当箱をさっさと食べ始めた。
息を吸う気配が嬉しげにあり、
「はいっ」
少し遅れた正しい返事と駆け出す足音と、
「ガッシャーンッッ」
何故か何かが倒れ壊れる騒音と情けなく俺を呼ぶ声もしたが飯をほうばっていた俺は無視して咀嚼した。
何を破壊したのかは知らないが跡部に叱られるのは長太郎の勝手だからな。
ひらひらと後ろ手に振ってやるとどうも、遅れてようやくにして先ほどの意味が分かったらしい。
ついこないだのことだ。
タイミングの悪いことに跡部にそれを見られ、
ドアの開け閉めが雑だ、壊れる、などとさんざん罵られていたのは。
「えっえーっと…」
なんで俺が長太郎が受けた注意をいちいち覚えていなくちゃいけないんだ。
「…あははははっはっ」
しかたなく後ろを見ると立て掛けてあったはずの何脚かのパイプイスの下敷きになりながら、
長太郎は納得しましたと笑っている。
「いやそこ」
らんらんと丸く輝かせている長太郎の目を見ながら、
「笑うとこじゃねーから」
俺は思った。
犬だ。
「なー長太郎」
俺は卵焼きを口にほうり込みながら、
「なんでしょう?」
顔を向けてきた長太郎を手招いた。
「今度、買ってきてやるからさー」
「なんです?」
下敷きになったイスを壁に片付け終わった長太郎は小首を傾げた。
「ぜって似合うと思うからさー」
「はい?」
「絶対付けろよな!」
命令だ、と笑って寄ってきた長太郎の左の耳たぶを俺は引っぱってやった。
「楽しみだな」
「はい??」
何だろうかと不思議そうな顔が、
それでも俺につれ訳も分かっていないまま楽しげに綻ぶのがおかしかった。
「なぁ」
長太郎。
もう一度詳細に語ってお前、笑う?
それとも…
[[硝子(針と糸と入れ替えました…)]]
廊下を歩く僕は、先を行く宍戸さんを見つけた。
前にあるのは遠めのシルエット。
肩を下げず胸をはるまっすぐさ。
更にその先を見ている宍戸さんの視線を僕はとらえられない距離から彼を見つめる。
そこにずっと見ていた長い髪はなく、すっきりと駆った耳元と頬を僕は潔さと寂しさで見つめる。
僕は見つめる。
コート上を、その外をテンテンと転がる黄色いボール。
動くもの、留まるものを拾ってはカゴに入れてあちらこちら、そちらを歩き回る。
額に浮いた汗を手の甲でぬぐう。
折った腰を伸ばして張り付いた前髪を払って、僕は顔を上げた。
そこに彼が居た。
宍戸さん。
と、声にはならない名を思う僕を一瞬、見る宍戸さん。
見た宍戸さんの視線は次の瞬間の歓喜している僕をけれど指してはいなかった。
見つめることは、何故困らせるのだろう。
ただ見ている、それだけです。
期待も欲求も、ただそれだけです。
叶うことを夢見るただそれだけのことが何故彼を困らせるのだろう。
移動教室の廊下の途中でよく、彼を見かける場所がありました。
ずっとこっそりと、偶然を望みながらその道を通っていました。
けれどその偶然が日の目を見た、目と目が合ったその時から彼はそこを通らなくなりました。
ただの、気のせいなのか。なのか…。
…なのだろうか。
耳にしたくなかった言葉を飲み込んで僕は廊下で、
教室で、校庭で、部室で、コート上でふと立ち尽くします。
何かが、どんな形でもいいから彼と交じり合いたい。
それが僕の望みなら彼の望みはその他にある。
ただそれだけのことだと知りながら解りながらでも僕の心はその逆願っている。
彼の気持ちのあり方を、願っている。勝手だ、僕。
ほんのわずか、見かけただけの彼の姿に僕の心は果てなく喜んでしまいます。
ただ彼だけを。
見つめて思って考えて生きているわけではないけれど、
自分以外の他人をこんなに常に、
感じて心に抱いて生きていることが僕にはとてもとても不思議でならない。
人にはそうと感じさせないように生きてきた気がするけれどこんなに自分のことばかり、
我侭な僕が、僕ではなく他人を意識している。
彼を、彼だけを見つめる。視線はまっすぐに、宍戸さんにだけ向かって行く。
その遠く近く、先で、彼の興味は、視線は僕の心を試すようにさだまらない。
そっちへ、こっちへ、どっちへ行くのだろうか。
うろうろと遊ぶ視線を追ってはやきもきする僕は自分で自分をその場に縫いとめる。
どこへでも自由に行ける、駆ける宍戸さんはきれいだ。
醜さをさらせずに捨てることも出来ず僕は一人、立ち尽くす。
僕は、僕で、でも僕は。
僕は、
「好き」
なんです。
こぼれてしまった言葉は誰に宛てたものでもない、けれど、宍戸さんだけです。
宍戸さんだけんなんです。
どうして僕はこんなに、ない、ものを願ってしまうのでしょう。
ねだってしまうんだろう。
どうしてこんなに違うのかと落ち込んで、狭い自分に嵌まり込む。
人が、広く見えてしかたありません。
大きくて、ゆとりがあって、沢山、あるのだと広がって行くのだと羨むばかり。
僕はこの気持ち、一つしかない自分を心地良く思いながらその否定をしてばかりいます。
その一つで、彼を見て、彼に捉えられて、離してくれないことに束縛の軋みより嬉しさが先に来ます。
きつい痛みよりもそこに留まり位置のずれないことに安堵するのです。
宍戸さん。宍戸さん?宍戸さん!と何度繰り返したのか分からない一人言を今日もまた、口にしたり、
夢に見た朝は余韻を反芻してみたり、
「気持ち悪っ」いと自分で自分ことを思いながらやっぱり「宍戸さん」とその名を思うんです。
宍戸さんの「嫌いじゃない」が僕だけだったらなら、それだけでいいんです。
消去。
消去。消去とデリートキーを押して、最後に残ったのは無字のカーソル。
19歳になった僕は今もあの頃の僕を束縛しているのかもしれません。
僕は僕を縫い止めているのかもしれません。
友人から送られてきた一通のメール、に添付されていた写真はもう過ぎ去った過去の、
とっくに流れてしまったはずの色と形と風を僕の頭の中に呼び起こしました。
[[鏡(感傷的追加)]]
夕食は各自で、用意して食べてくれと言われた。
昨夜の夕食の席の事だ。母は久しぶりに会う友人と映画を見て、食事を一緒にするのだと言う。
父は仕事だ。姉も明日は仕事がいつ終わるのか分からない、と言った。
そう言った姉は食べ終わって部屋に戻ろうとした僕の手を取って今日は、
「一緒に」
テレビを見ようよと言って僕をソファーに座らせた。
何だか分からないけれどきっと一人で居たくないのだろう。僕は腰を落ち着けてテレビを見ることにした。
姉がニュースから、チャンネルを変えた。
見たことない人が画面の中を、歌に合わせて走っていた。
「なつかしー」
と思ったら、違う。
「誰、これ?」
滑ってるんだ。
ローラーブレードかと口にすると、口端を綻ばせた姉が違うよと言った。
「スケート」
「ふーん」
そんな些細な違いはどうでもよかったけど、わざと、
からかった様な言い方をする姉を尊重して頷くだけにしておいた。
一応、
「アイドル?」
っぽかったので聞きながら、目で追っていると、そうよと姉がにこにこする。
「光源氏」
と返ってきたのは紫式部のアイドルだ。
「違うわよ」
「へ?」
「光、はその字でいいけどゲンジはカタカナか英字だもの」
「…何が?」
「ひ・か・る・げ・ん・じ」
姉の目が細く、笑う。
「そういう名前のアイドルなのよ」
姉が教えてくれたのはグループの名前だということだ。
「知らないよ」
しゃくに触って放るが、姉は気にせずタイトルはね、と続ける。
「硝子の十代」
「そうなんだ」
自分でも、嫌なら相手をしなきゃいいとは思うけど、嫌、なわけじゃないから困る。
サークルの友達にも言われた。
姉となど、しばらく挨拶もしていない、と。
そういう気にはなれないし、この幾つか、
自分の先を歩いている親とは違い仲間だと感じる姉をやっぱり僕は嫌いになれない。
「知らない?」
傾げた小首で視線を向けてくる姉に、
「どっかで聞いたことある気はするけど」
一瞬、考えていたことを悟られたくなくてなんとなくで濁した。
「ちゃんとは知らない、か」
残念、なような楽しそうな気がしないでもない言い方をして、
「うん」
姉は立ち上がり、
「そっか」
と言って僕の頭に手を乗せて、ケタケタ笑いながら、歌いながら歩きだす。
先ほど、聴いたメロディを着メロみたいに単音で流すと部屋を出て行った。
「なんだ」
それ。
タイトルが頭に浮かぶ。
「ガラスの」
十代…。
からかい、か感傷か。19歳、の自分にだからそういう言い方をしたのだろうか。
過ぎ去ってみれば、そういうことなんだろうか。
なんだか宍戸さんに会いたくなった。
「あっ」
と、言う間にそれは床に打ちつけられて鏡は、割れていた。
それはテーブルの脇に置いてあった、以前、
宍戸さんが百均で買ってきたと言っていた小さな折りたたみのミラー。
「すっすみません」
黒いプラスチックの板は剥がれ、半透明な鏡は幾つかの大きな破片に割れていた。
拾おうとしたら、
「バカっ」
のばした腕を掴まれて阻止された。
「硝子を素手で拾うんじゃねー」
と叱られる。腕と一緒に屈みかけた体も抱き寄せられて、立たされる。
「ちょっと待ってろ」
言い置いて、宍戸さんは居間から出て行った。
パタパタと走る足音、に戸棚を開ける音。
「勝手にやるんじゃねーぞー」
と合間に叫ぶ、念の押し様。
そんなに子供、と思われているのだろうか。
戻ってきた宍戸さんの手にはビニール袋と紙の袋、軍手、小型の掃除を抱えていた。
「触ってねーだろうなー?」
随分と酷い言い草だ。
僕を脇に避けさせると、宍戸さんは片づけをはじめた。
背中を眺めながら、僕は聞き流した言葉を不意に思い出して、口にした。
「鏡ですよね」
「は?」
破片を拾いながら宍戸さんは聞いてくれる。
「だから、鏡じゃないですか、それ」
僕の指したそれを摘みながら宍戸さんは眉を寄せた。
「硝子じゃなくて」
粉々になった鏡はキラキラとライトの光を映して床で瞬く。
キレイだなと思って見ていると、
「鏡は硝子だろ?」
宍戸さんは自信がなさそうに歯切れ悪く言った。
「そうなんですか?」
他意はなく軽く頷く。
「そうなんですかって…」
「へー」
苦味潰したような顔の宍戸さんは破片を拾い終えたのか袋の口をしばり、掃除機のスイッチを入れた。
しばらく、ちりを吸い込む掃除機の音がぐるぐると回って、唐突に電源は切られた。
「よく知らねーけど、そうなんじゃねーの」
やけっぱちな宍戸さんの手は、丁寧に掃除機のコードを本体に収めていた。
一つ年上の宍戸さんはもう十代じゃないのだと、
「硝子の十代」
「へ?」
僕は姉が歌ったフレーズを口ずさみながら二十歳の宍戸さんに微笑んだ。
[[サイズは?(大人サイズ改題)]]
「宍戸さんて大人ですよね」
ある日、突然そう言われた。
寝耳に水、とはこういう時に使うのだろうか。
何か似たような意味の慣用句や言葉が他にあったような気がして、
そんな現況とはまったく関係のないことを思い出そうとしてしまった俺は、
「でさー、そいつが!」
突然、飛び込んできた声とその連れらしい笑い声にここが今、
どこなのかを思い出して思考を止めた。
危ねー。
マックだった。2階席に上がってきた一団はぞろぞろと窓際のテーブル席へ流れて行く。
自分達の前のテーブルにはそれぞれのセットをだいたい、平らげた跡のゴミがトレーの上で踊っている。
クーラーはよく効いている。
真上が噴出し口にあたっているその場所は少し、肌寒いほどだ。考えてしまう。
大人?誰が?俺が?
「……は?」
よほど俺は意外な、険のある顔をしていたらしい。
「しっ宍戸さん?」
それを言った長太郎は慌てたようにあわあわと周りを見渡している。
誰が居るというのか。
「誰が?」
お前は誰と話をしてるんだ。
俺は残り数本になった長太郎のポテトの袋を引き寄せてあさった。
一本、長いものを見つけて口に入れる。
そんなつもりはなかったのだが、
もしかして彼には怒っているように見えているのだろうか。
俺は、
「誰がって…」
俯く長太郎の旋毛を見つめた。
言い渋る長太郎はしばらくして、無言の俺に観念したのか細かく息を吸い込み小さな声でつぶやいた。
「…宍戸さん」
と言って、今度はすくめた首で上目使いに俺を、
「へー」
見た。
無意識に頷いていた声は発した自分でも、耳にしてみると思いのほか低く聞こえた。
ふーん。
長太郎は気まずそうになりそこなった笑いを口元に浮べた。
長太郎にとって、俺はそういうイメージなのか。
怒りはなく、ちょっと寂しい気分。
俺は口端を少し上げて見る。
同時に、何か、不思議とやる気にさせてくれる気持ちがあった。
隣の空いた席に置いてある誰かの忘れ物らしい折り畳み傘を見ながら、
「じゃあお前は?」
「え?」
なんなんだ、と尋ねる俺は長太郎が、
自分で自分を例えるなら何と言うのかを考え気分が上がっていく自分を不思議な気分で思った。
戯れな思いつきだったがなかなか楽しい。
うきうきと跳ね上がる気分で、顔を上げる長太郎の表情をそっとのぞきみた。
「ふーん」
今度は声に出して、体を前に倒して、長太郎の前にあるポテトの紙袋をばりりと破き開いた。
底に転がっていた小さなカケラをつまんではパラパラと口に放り込んだ。
待つ間、
「………分かりません」
数分。長太郎は申し訳なさそうに言った。別に答えを、
さほど求めていなかったのだからどちらでもよかったのだが長太郎は思いの他、
真面目に考えていたようだ。
べつにすまなそうにする必要はまったくないと思うが、
「分かんねーの?」
ま、いいか。
「いいか、長太郎」
「はい」
神妙な顔をする長太郎に近づいて、
「お前はな」
「はい…」
ごくりと隆起する長太郎の喉を眺めながら、
かねてから思っていたことを高らかに披露した。
「犬だ」
「…犬……ですか?」
「おう犬だ」
「犬ですか.....」
「犬以外ないな、うん」
俺は自信を持ってうなずいた。
「うーん、どういう種類がいいかねー」
長太郎のポテトの最後の一本を破いた袋の中からつまんだ。ガリガリと噛む。
「どういう犬種がいいんだ?」
長太郎に聞いた。
「そんなこと本人に聞かないでください…」
たぶん、真面目に考えていたのだろう、長太郎どこか遠くを見やり力なく嘆いた。
「うーんどんなやつっかなー」
俺は、目の前の長太郎の顔をじぃと見て考えた。
「宍戸さん」
長太郎の頬が軽く朱に染まった。
あ、かわいい。
かもしんないと思った俺は赤くなった部分をむにりと片手で摘んだ。
その途端、
「あっ」
かあっと顔中に火がついたようになったが長太郎は、
「ひどいですっ!」
叫び、微笑ましかった表情はと瞬間冷却で真顔に戻ってしまった。
「は?なにが?」
「だって宍戸さん、俺のポテトー!」
「何を今更」
「今更じゃありませんー」
「俺は隠しても隠れてもいねーぞ」
「それでもですー」
「お前の目の前で食ったじゃねーかよ」
「最後に残しておいたのにー」
「はぁ?」
「ガリガリするやつ食べたでしょ宍戸さん!」
「食ったが…よ」
ガリガリってなんだよ?
俺はだんだん面倒になってきつつも怒らせると長引きそうでしかたなく尋ねた。
「何が問題なんだ?」
しかし返ってきた答えは、
「小さくて細くて油が染みててこんがりガリガリ揚がったやつですよ!」
熱意溢れる奇妙なポテトへの愛の宣言だった。
「そこがうまいんですよ!」
最後に両手を胸の前で組んで、
「最高なんです〜」
長太郎は幸せそうにほわほわと笑った。
別にそれはかわいいとは思わなかった。
「そうか…」
俺は、氷と、その溶けた水だけだったはずのジュースのストローをくわえ、すすった。
「それにですねー」
「はいはい」
「宍戸さん」
「あとは何だ!」
「塩と油の付いた手で人の顔掴まないでくださいよー」
俺は体中の力が抜けていくのを感じた。
俺は、その指を見て、
「宍戸さん?」
その長太郎を見て、
「はいはいはいはい」
言いながら、周りを見回した。さっきのグループはいつに間に居なくなったのか、
2階席には誰もいなくなっていた。
「口開けろ」
確認をしてから、俺は手を長太郎の顔の前に突き出し、
「はい?」
ぽかんと開いた口に指を押し込んだ。
俺の指をほうばり、
「お前の大っ好きなガリガリを食ったのはこの手だぜ」
目を見開く長太郎は何を言いたいのかもごもごとこもった声を発して俺を見た。
「噛むなよ?」
俺はそう言って笑ってやった。
[[↓]]
あっ、
「宍戸さんだ」
と思う時には口にしている。
彼の名前は僕にとっては何より一番の話題で、僕の口はおしゃべりだ。
一瞬だって、つぐめない。
黙っていられない。
目の端に、捉えただけで僕の心はみっともなく、もう乱れては打ち、気持ちは視界の先へ走って行く。
はしゃいでしまいます。
≪前髪の先≫
宍戸さん、です。
今、もし僕の心を絞り上げられたらきっと気持ち悪いくらい、
彼への思いはぼたぼたと零れて下を濡らしてしまうと思う。
うわっ。
なにか照れてしまうのを、溢れてくる気持ちを息と一緒に飲み込んで、
僕は目にかかる前髪をさっと払った。
彼はただ、向かいの通りを歩いているだけだ。
ただそれだけで、でもだからこそ見つけた僕は驚きに震える。
約束の場所はまだこの先だし、この路を通ると聞いていたわけじゃない。
第一、彼の家からその場所まで普通に行くとしたら今、この場所は通らない。
どこかへ、用事があったんだと思った。
逆側の路で、連なる店の軒先の、ガラスに歩いている自分を映して見る。
へんじゃ、ないよね。
立ち止まる。
後ろ姿や足元、それから顔を覗きこむ。
映すガラスの向こうには可愛らしい桜色のワンピースがディスプレイされていた。
服とか、髪型とか。
表情とか。
確認するように映った自分を目で追って見る。
今日はべつに、特別な日でもなんでもなくて、彼とは毎日の様に会っている。
そういう相手だし、一緒に出かけた事だって数えられないぐらい沢山、
沢山あるっていうのに僕は何を気にしているってんだろう。
どれぐらいか繰り返せば、慣れるんだろうか。
そうかもしれないけど今の自分にはやっぱり、信じられない。
何度、何度でもこれからも、宍戸さんと会えば、
出かければ側に居ればきっと僕は一生続く、動悸を、
揺れ打つ気持ちを止めようにも止められないように思うんです。
宍戸さん。
そんな事を僕が言ったら、彼はどんな事を思うんだろう。
どんな、顔をするんだろう。
変、かな。
そう思えばこの気持ちを聞きたいような聞いて欲しいような、
聞かれたくないような、迷うトキメキでいっぱいいっぱいだ。
とくんとくん、とくんととても胸の中で響き渡る。
けれど迷うけれども、本当に一番大事な気持ちと言葉は、
もう選択も生まれないぐらいに僕に種をおろし、根をはり、
体のどんなところででもまっすぐにただ、宍戸さんが好きだと、
好き、だと言ってやみません。
頬がゆるく、丸く赤くなってゆくのがガラスの鏡に映っていました。
気がついても、止まらない。
街角で訳も無くこぼしてしまう笑いは、怪しい人にしか見えないかもしれません。
でも、いいんです。
だってもうすぐ宍戸さんが、僕に会う為に僕と待ち合わせたこの場所に、
「宍戸さん」
ほら、来てくれるんです。
にっこりと緩んでいた頬をさらにまろませる。
ガラス越しに目を合わせて名前を呼んだら、彼はちょっと驚いた顔を僕にしました。
「わりー、待ったか?」
すまん、と片手を上げ近づいてきた宍戸さんに僕は、
「全然っす」
大丈夫ですと首を振り、向きかえりました。
「本当かー?」
疑わしそうに眉をひそめて宍戸さんは僕の隣に並び、ガラスの壁にかるくもたれ、
「ええ」
答えた僕に鼻を皺ませながら右手をジーンズのポケットにねじり入れた。
どこかへ寄ってから来たのを気にしているのだろうか。
こっそり近くにあった時計で確認して見るけど待ち合わせの時間には遅れていない。
僕は宍戸さんが嫌な気分にならないようにとびきり頑張ってほほえんで、
「もちろんです」
そこにあいていた左手をむぎゅりと両手で掴み、
胸の前まで持ち上げて宍戸さんの目に目を合わせました。
「そっ、そうかっ」
面をくらって目を丸くする宍戸さんはそれでも手を払いのけたりはせずに、
「ああ」
僕から目を逸らさずにうなづきました。
ガラス越しに、なんだ、と怪訝な顔をした人たちが後ろを通り過ぎて行くのが見えました。
背にした宍戸さんにそれは見えなかった様でした。
僕がデカイせいもあるかもしれません。
知らない方が幸せな事もあります、きっと。
僕は何事もなかったように手を離し言いました。
「行きましょうか」
ふっ、と抜けていた気を取り戻して宍戸さんは先に歩きだします。
「じゃ、行くか?」
「はいっす」
僕は彼の後について歩きだす。
宍戸さん。
ねえ、
「どこに行きましょうか?」
宍戸さん。
幸せって、こんな風に感じる時もあるんですね。
そう思って、さりげない甘い雰囲気にそれをじんと感じてみたり。
それを言ったら、笑われるかな。
しかられる、かな。
通りはそろそろ人が多くなる時間になっていました。
僕らの横を通り過ぎて行く人の姿は制服、私服、作業着、スーツ。
お昼時の陽気の中をゆっくりと歩む人、と人。
大人子供、老人若者、学生社会人、児童も居る。
春の風は、とても優しく歩く僕と宍戸さんの前髪をゆらしていました。