┼ 咎狗の血 アキラ&ケイスケ ┼
キミソラ1
飲み干した空のペットボトルを路上に捨てて、アキラは口元を親指でぬぐった。
軽んだ音が二、三度ほどアスファルトを跳ねたが歩道のくぼみに当たったのか、
「ん」
音がやみ見れば水滴が電球の明りを受けて瞬いた。
開けていた襟元をかき合せた。
喉を流れ落ちる水は痛みに似て冷たい。しかし熱を持った体には丁度よく、
アキラは腕をだらりと脇にたらして壁にもたれた。
腕と脚には確かに少しの、負荷があり疲労と呼ぶにはあまりにも少な過ぎるが
体の中を流れる血を意識させられる程度には火照り、
アキラは凍てついた指先で温もりを辿った。
外側から内へ。
先から中心へ滑らしたが皮肉にも心には何の火も点ってはいなかった。
今、に始まったことでもなかったが。
見上げたビル群の影の合間に丸くも尖りもしていない中途半端な月が見えた。
薄黄色い、歪んだ光が曖昧な輪郭で闇の中に浮かんでいた。
肘にずり上げていたジャケットの袖を手首まで下ろして、アキラは目を閉じた。
瞼を閉めて一瞬、だけ、
「ふぅ」
訪れる静寂とは違う、言い難いが落ち着く闇の気配は心地いい。
多分それはそれがほんの僅かな、瞬きの間にしか生まれないものだと知っているからなのだろうか。
静かに落ちた心地よさは気を緩めた次には近くもないはずの街の喧騒を急速に引きこむ。
蓋の裏の小さかった澄んだ闇はどろりと濁って膨らみ、弾けた不可思議な光の粒がずるずると渦を巻く。
気持ち悪い。
意識のないまま目が開けて、壁をずり落ちているのかと思ったがそうでもない。
ただ体のテンションは落ちている。
そう思った。
「いよーっす」
野太い声がつかの間の、一人の時間を遠慮なく破り、
大して気にしていなかった足音がこちらに近づいて来ているものなのだと気付いた。
覚えのある声音にアキラは顔も向けず、壁にもたれたまま注意も上空に。
「なーんでこんなとこいるんだか」
こちらの意志を確認するつもりもない言葉を耳にしても咎める、
でもなく目を細めて月を眺めた。
どうせ何も、
「アキラー」
誰も、こちらの都合も気持ちも関係ないのだ。
しゃべりたい、奴がこちらに近づいてくるだけだ。
よく見る何人はかろうじて顔と名前が一致するが、
多く声をかけてくる奴らのほとんどをアキラはぼんやりとしか覚えていない。
それで困ることもない。
会話を楽しむことのないアキラの性格を知らずにやってくる奴がいないわけでもないが、
「ああ」
それに答える気のないアキラの態度を知れば二度目はない。
嫌ならば近づいてこなければいいのだ。
和気を求める奴などいない。
声だけをとりあえず返すと彼はそれで満足したのかケタケタと乾いた、
咳のような笑いを吐いて壁にもたれるアキラの側まで歩いてきた。
「ほーれ」
「んっ」
顔の前に、横から瓶が差し出された。
「あまーったからよっ」
酒臭い息が、鼻につき眉間に皺が寄ったのに関わらず彼は更に顔を寄せてきた。
存分、酔っているのだろう。
ぎゃらっぎゃら笑いながらしゃべる彼に屈託はなく、
今が楽しいのだということだけがアキラにも分かった。
しばらくそうして生返事しかしないアキラ相手に話をしていた彼だったが不意に、
「やるよ」
と言って、受け取るだけ受け取ったアキラの手を確認して男は背を向ける。
ひょこっひょこっと独特の片足を摺る足取りでのろりのろりと歩き角の向こうに消えていった。
電球の明りで瓶を見ると赤いラベルが貼られている。
受け取ったものの、掴んだ部分はその瓶の先の持ち主の体温か生ぬるい。
動かす度にうっすらと表面に泡がこびりついた液体は、
瓶の底でどんよりと揺れる。
栓を開けてから随分経っているように見える。
口をつける気にはなれなかった。
アキラはその場に瓶を置き、ジャケットのポケットに手を入れて歩きだした。
先ほど男が消えていった角に背を向けた。
帰ろう。
アキラはアパートへ向かって路地を抜けた。
幾つめかの角を曲がった時だった。
「アっアキラっ」
「ん?」
聞きなれた、耳に馴染んだその声を聞きながら足元に落としていた視線を上げて、
アキラは自分の目を疑った。
「っつ」
頭上に眩しい緑の光が視界いっぱいに広がっていた。
木漏れ日のように優しい。
それは断片的なものだったが記憶の隅に、かすかに覚えのある幼い頃の思い出の一部。
温もりは風もなく揺れた。
「ケイスケっ!」
名前を呼んで、
「えっ?えっ!」
手を前に差し出して触れたごわつく布地の感触に、
「あ……」
目を丸くして体をこわばらせるケイスケの顔を見てアキラは言葉を途切れされた。
「あっあの?」
掴んでいた、見慣れたケイスケのつなぎを手放した。
「ケイスケ…」
「アキラ?」
呆然とした自分の顔を伺うケイスケの気配をじっと感じて、
アキラは互いの間でさまよっていた自分の手を引き寄せジャケットのポケットに入れた。
「すまない」
自分がそう言えば、ケイスケがそれ以上、
たとえどんなに不思議に思ってはいても何も聞いてこないだろうと知った上で口にした。
謝罪でも何でもない、言葉を。
「コンバンワ」
俯いていた顔を少し、上げてケイスケは今更の挨拶をして力なく笑った。
「…よぅ」
どうしてそんな気になったのか、乗ってやろう、とアキラは思った。
「Bl@sterの、帰り?」
「あぁ」
「そっか」
やや声音を明るくして、ケイスケが不意に―――
一瞬で消えたはずの光が、
弾けた温もりがその激しさとは思えない優しさでアキラの前に現れた。
―――予想のしなかった笑みを浮べた。
そして幻の渦は消えた。
「…どうした?」
自分はよっぽどおかしな顔をしていたのだろうか。
晴れやかに笑ったはずのケイスケの顔色がまたかげる。
「なんでもない」
照れ隠しもあってアキラはぶっきらぼうに答えた。
「ごっごめん」
また、謝る。
いやまたと言うのは間違っているがどう考えても彼は悪くなく、
むしろこちらが悪いと言わざるをえない時ですら毎度と謝るケイスケの態度に、
「べつに」
アキラは言葉には出さず苛立った。
そんな言葉ではケイスケには逆効果だろうことは知れたが自分の中には他の言葉はなく、
アキラはポケットの中で手を握りしめた。
どうしてあんな幻を見たのだろう。
改めて見上げた頭上には、二つ、
裸電球が柱の中間にくくりつけられているだけだった。
たしかに色は緑だったが、薄汚れた小さな光はとても見間違えるものではない。
何故あんな夢を、見たのだろう。
夢?
夢、か?
あの鮮やかさは夢だからこその偽りなのだろうか。
分からない。
考えこむアキラの前で、ケイスケは無言でアキラを見ている。
見なくても判る。
彼はただじっと見ているだろう、アキラを。
それが判る時間を共に、側にいて過ごしてきたのだ。
一瞬だけ、
「ケイスケ」
目蓋を閉じ再び開けたアキラの目に腰に巻いた青いつなぎの上着の部分、
袖がびくんと揺れるのが見えた。
息を細く吐いてアキラはゆっくりと顔を上げた。
ケイスケに、告げてやれる言葉を探しながら、アキラはポケットの中で拳をほどいた。
溢れる光の中で、アキラはいったい何を掴み取りたかったのか判らなかった。
けれど今は、欲しいのかすら判らない光よりは目の前の彼をどうにか安心させて、
家に帰る為の言葉が必要だった。
(20060101)